
もっと祈りたい(マルコの福音書9章14節~29節)
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序)イエス様の言葉に戸惑う
・イエス様が 3 人の弟子と山に登っている間に「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」につかれた男性が連れて来られ、麓の弟子たちはこの霊の追放ができなかった。その理由に私たちは戸惑う。
1)この種のものはメシアでなければ追い出せない?!
・この当時、悪霊追放の術式がある程度確立されていて、悪霊とコミュニケーションを取って、その名を聞き出すことができれば、追放が可能だった。それゆえ「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」は厄介であり、メシアが来られるまでは癒されることはないと考えられていた。
・「祈りによらなければ」とは、大きな問いを発する言葉である。
→現代社会において「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」の問題に向き合う可能性は低いが、これは「神の国が臨んでいるしるし」であり、神の国の力を具体的に現すことは現代も変わらないはずである。
2)山の上と山のふもと~天に昇られたイエス様と地上の私たち~
・15 節の群衆の驚きを含め、麓の様子は、イエス様不在の世界を象徴する。イエス様は天に昇られて目の前にはいない。そういう世界で手をこまねいて議論ばかりする(再臨ばかりを待ち望む)私たちの姿である。
・イエス様の登山はモーセのシナイ登山と重ねられている。モーセ不在の中で、イスラエルは金の子牛を造る。弟子たちは不信仰を露わにする。
・「いつまで一緒にいなければならないのか」は「いつも共にいます」とは矛盾しない。別の表現で「いつまで、あなたがたのお世話係をしないといけないのか」という嘆きである。イエス様に見捨てる意図はない。
・共に歩むとは自立した人格同士の行うことであり、もたれ合い、甘え合うことではない。神に甘えた状態では、御国の現れが限定される。
3)「祈り」への挑戦
・「祈りによらなければ」は福音書を受け取った教会にも戸惑いを与えたことが「祈りと断食によらなければ」と書き加えた写本から推察できる。
・これまで続けて来た祈りはほとんど「神に頼む祈り(願い)」だったとすれば欠落していたのは「神に頼まれる(状態になる)祈り」ではないか。
・神に頼まれる祈りには、覚悟が要る。自分を「危険」にさらすことである。イエス様が山の上で祈られたのは、この祈り。御言葉(モーセとエリヤ)との対話を含む理性的なもので、自分を変える祈り。
結)もっと祈りたい
・「主の祈り」の前半は「神に頼まれる祈り」だと気づかされる。
・「できるなら」は「神に頼む祈り」の世界「信じる者にはどんなことも」が神に頼まれる祈りの世界である。