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サマリー
あらすじ・解説
序)「通りすがりの人たち」の実相
・朝 9 時から 12 時まで、マルコは嘲られるイエス様を描く。
・ゴルゴタはエルサレムに出入りするメインストリートから外れており「通りすがりの人たち」はわざわざ出向いた可能性が高い。
・彼らの発言からイエス様の宮きよめに反発した商売人の関係者だろう。
1)現場にいなかった「祭司長たち」
・「同じように」というのは「通りすがりの人たち」と同調しているという意味で「一緒になって」という意味ではない。
・祭司長たちの言動は、3 人称でありイエス様に直接向けられる 2 人称の表現になっていない。3 人称命令形は、祈りで使われる文法!
・「代わる代わる」→「互いに」イエスを嘲り合っていた。
・この日は過越しの祭りであるから、宗教的汚れを受ける可能性の高い死刑執行の場に、祭司長たちが出向くことはあり得ない。
2)十字架の場面の情報源
・「通りすがりの人たち」の声を聞いてマルコに証言したのは誰か。イエスの大人の弟子たちは逃亡しており、女性たちは遠巻きに眺めていた。
→最も可能性が高いのは、十字架刑を執行したローマの百人隊長(15:39)
・現場にいなかった「祭司長たち」の秘密裏の会話を証言できたのは誰か。それはそこに一緒にいた「誰か」で、後に悔い改めて、イエス様を信じるようになった人である。(使徒の働き 6:7 を参照)
・この記事は、イエス様を嘲った者による罪の告白を基に語られている。
3)浮かび上がる十字架の意味
・「他人は救った」と祭司長たちは認めている。これは病の癒しや悪霊追放のことを指すが、祭司長たちはこれを悪霊のかしらの力に帰した。そういう人物ならば、神に呪われて死ぬはずであり、十字架はその証明だった。本物のメシアなら十字架から降りる奇跡を起こせるだろう。しかし「自分は救えない」=偽メシアであることは決定的。
・けれども、イエス様は十字架を降りる以上の救いのみわざである「よみがえり」を果たされた。こうなると、イエス様を嘲った人々が呪い殺されてしかるべき、となる。しかし福音は彼らに救いを提示した。
結)罪の縄目から解放する救い主
・侮辱した人々は、侮辱せずには生きていけない人たちだったと考えられる。誰かの被害者が、誰かの加害者になるのが、罪ののろいの世界。
・私たちに必要なのは、こののろいの連鎖の世界から抜け出すことであり、イエス様の十字架は、その道を開く。すべてののろいを受け止める十字架の前に「自分が嘲る者である」と告白する時、私たちは救われる。