『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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このコンテンツについて

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 将来への希望(エレミヤ書29章11節)
    2025/08/17

    序)「氷点」が示す「なくてはならぬもの」④

    「おれにとって、なくてはならぬものとはなんだろう」(「氷点」階段)三浦綾子著「氷点」の第四の自殺者が示す「なくてはならぬもの」→将来への希望「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ 29:11)

    1)人生の希望

    「もし…療養している最中に、誰かが私に次のように預言したとしたらどうであったろう。「あなたの病気は治ります。そして、三十歳を過ぎてから、一人の男性が現れます。…五年目には、あなたはその人と結婚することでしょう。…それから五年後、一千枚の長編小説を書き、その作品が入選して、一千万円の懸賞金をもらうことでしょう。そして少なくとも七十歳までは生き、七十冊近い本を出すことになるでしょう」と。私はこれを聞いて腹を抱えて笑うか、くだらぬ冗談として聞き流したことであろう。 」(「明日のあなたへ」神の領分)

    「神の書かれるシナリオと、あなたの書かれるシナリオとは異なるのです。」(同)

    「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」(エペソ 3:20,21)

    2)死後の希望

    「母を失った信夫はどんな生涯を送ることだろう。…でも、いよいよとなれば、信夫のことは神さまにおまかせするより仕方がないかもしれない。…今は辛くても、きっとこのことも、結果としてはよいことであったという日が来る。神が生きておられる以上、信夫のことも、神が守って下さるにちがいない」(「塩狩峠」母)

    「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」(ルツ記 2:20)

    「あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。」(Ⅱサムエル 7:12)

    3)永遠の希望

    「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがれる みはやすけし…わだしが死んで、一人とぼとぼ歩いていくんだども、なんも淋しくないのね。イエスさまの手さつかまって、イエスさまと一緒に、天の国さ行くからね。」(「母」山路越えて)

    「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ 4:16,17)

    「うれしかったなあ。多喜二に会える、多喜二に会える。うれしかったなあ。」(「母」山路越えて)

    結)私達の確信と祈り

    「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」(詩篇 138:8)

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    48 分
  • 自分の正義を手放せますか(ヨナ書2章1節~10節)
    2025/08/10

    序)

    ・ヨナ書は短い物語ですが、予想外の展開と人間らしい主人公ヨナの姿が心を惹きつけます。嵐の海、暗く冷たい魚の腹の中――そんな極限の中で、ヨナは何を思ったのでしょうか。

    1)

    ・神様の命令を聞いたヨナは、正反対の方向に逃げてしまいました。大嵐に巻き込まれ、海へ投げ込まれ、ついには大きな魚に飲み込まれる――そこからが神様との対話の始まりでした。

    2)

    ・ヨナは放蕩息子の兄と似ています。『自分は正しい』という思いに縛られ、赦しや喜びよりも、自分の正義を守ろうとしました。その固い心は、やがて彼を孤独へと向かわせます。

    ・私たちも、自分の正義を強く握りしめる時があります。その結果、神様の導きに耳を閉ざし、周りとの関係を失い、気づけば暗く冷たい“魚の腹”のような孤独に沈んでしまうこともあるのです。

    3)

    ・ヨナのような最善ではない祈りが、私たちの普段の祈りかもしれません。でもたとえそうであったとしても、神は傍に立って聞いてくださいます。

    ・それは、イエス様はヨナの話を引用され、この時のヨナの姿をご自分の十字架の死と重ね合わされたからです。イエス様は私たちの孤独や言い訳をすべて背負い、十字架の死と“よみ”にまで降られたからです。

    結)

    ・放蕩息子の兄は、父に宥められた後で祝宴に参加したでしょうか?ヨナは、ヨナ書で書かれている話の後、どうしたと想像しますか?

    ・教会は、赦しと喜びのパーティーが広がる場所です。今は納得できなくても、この交わりの中で私たちの祈りは少しずつ変えられていきます。

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    47 分
  • 苦しみの中の喜び(詩篇70篇1節~5節)
    2025/08/03

    序)誰が何を「思い起こすため」なのか

    ・詩篇 70 篇は 71 篇の導入として語られていると考えることができる。70 篇の表題には「記念のために」ということばがあり、「思い起こさせるために」ともヘブル語で訳すことができる。それでは、「誰が何を思い起こすために」この詩篇 70 篇は書かれたのか。

    1)神への叫び

    ・「神よ」「主よ」という呼びかけの違いは、ここでは、この世界のすべてを支配する全能者としての「神」という名と、私たちを助けてくださる方である個人的な関係としての「主」という名前で呼び分けている。

    ・詩篇71:5.17をみると、若い頃を思い出していることから、いい大人だったのではと考えられる。そして、いい大人だった詩人は切迫した緊張状態の中、恐怖を感じ焦りを経験し、全能者でありわたしたちを憐んで助けてくださる主に助けを必死に求めた。

    2)神に信頼する共同体

    ・3 節には詩人のいのちを探し、滅びを求めている敵たちについて書かれ、4 節では 3 節までの敵と神を信頼する共同体が対比されている。

    ・1~3 節までは「神様・私・敵」だけ見えていたが、4 節には「あなたを慕い求める人たち」とあり、神に信頼する共同体が自分には与えられていることを思い起こした。

    3)神を知ることは、自分を知ること

    ・詩人は、主権者である神を賛美する中で、神の前に出たとき自分がどれだけ小さい者なのか自分の小ささ貧しさに気づいた。

    ・宗教改革者のカルヴァン「神を知るということは自分を知ることである。」⇒神とはどういう方か見えたとき、私たちは自分がいかに小さく、助けを必要とする存在なのかを知る。真の自分を知るとき神の主権がどのようなものかも知ることになる。

    結)苦しみの中なぜ喜ぶことができるのか

    ・神の主権の中で、神の共同体が与えられていることを思い起こすとき、苦しみの中でも私たちは喜びと希望を見出すことができる。

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    30 分
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