• 教会をあきらめない愛(ヨハネの黙示録3章14節~22節)

  • 2025/02/02
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教会をあきらめない愛(ヨハネの黙示録3章14節~22節)

  • サマリー

  • 序)油断大敵:「自分たちは大丈夫」は危険

    ・人は神ではなく、教会は人の集まりであるから 100%大丈夫ということはないが、まったくダメでもない。堕落した私たちを見捨てないイエス様がおられる。

    1)教会が「創造の源」から遠ざかる時、教会は堕落する

    ・教会は 100%大丈夫な「アーメンである方」につながる時、与える恵みにあずかり、この世界を神の恵みで潤すことができる。

    ・しかし、信頼すべき方を見失うと、与える手を閉ざし、けちになる。

    ・「熱いか、冷たいか」は熱心さの話ではなく、役に立つかどうかの話。

    →ラオディキアの町には水源がなく、ヒエラポリスの温泉かコロサイの清水を引いて来ていたが、距離が長いため生ぬるくなっていた。

    2)教会が町に溶け込んでしまう時、教会は堕落する

    ・ラオディキアの町の三大産業は①銀行業、②医療産業(目薬)、③繊維業(黒紫色の羊毛が特産品)。そして職業と偶像崇拝、皇帝礼拝はセットになっていたから、この当時、偶像崇拝に加担せずに富むということはあり得ないことだった。

    →ラオディキアの教会の富は町と一体化した妥協の産物であることが明白

    ・それゆえ、イエス様からの評価は、見える所と真逆であった。

    ・お金持ちの教会に「買いなさい」とは、持っている富を全部手放すことになるとしても、考え直す価値のあることだということ。

    ・彼らの「行い」は、永遠の神の国にとって無価値であった。

    3)教会がイエス様を締め出す時、教会は堕落する

    ・「愛する者が叱られる」ことを心に刻もう。神の聖なる愛は、神の聖なる怒りと裏表である。怒りのない愛は、ただの甘やかしである。

    ・私たちは神の怒りにおびえるのではなく、神の愛に震えるべきである。怒りにおびえた「悔い改め」は本物にならない。

    ・「戸の外に立って叩く」人の姿は、貧しくて、物乞いをする人の姿と重なる。ラオディキアの町には裕福さの陰でそのような人たちがいたことだろう。これはイエス様が教会の中ではなく、貧しい者の側にいるという衝撃的な幻である。

    ・教会が貧しい者たちに扉を開くとき、イエスの食卓を共に囲み、神の王座に共に着く神の国が立ち現れる。

    結)耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。

    ・聖餐式において、主イエスの臨在を宣言し、信じて行うとしても、恵みにあぐらをかくような態度は戒められる。私たちに何が語られているだろうか。

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あらすじ・解説

序)油断大敵:「自分たちは大丈夫」は危険

・人は神ではなく、教会は人の集まりであるから 100%大丈夫ということはないが、まったくダメでもない。堕落した私たちを見捨てないイエス様がおられる。

1)教会が「創造の源」から遠ざかる時、教会は堕落する

・教会は 100%大丈夫な「アーメンである方」につながる時、与える恵みにあずかり、この世界を神の恵みで潤すことができる。

・しかし、信頼すべき方を見失うと、与える手を閉ざし、けちになる。

・「熱いか、冷たいか」は熱心さの話ではなく、役に立つかどうかの話。

→ラオディキアの町には水源がなく、ヒエラポリスの温泉かコロサイの清水を引いて来ていたが、距離が長いため生ぬるくなっていた。

2)教会が町に溶け込んでしまう時、教会は堕落する

・ラオディキアの町の三大産業は①銀行業、②医療産業(目薬)、③繊維業(黒紫色の羊毛が特産品)。そして職業と偶像崇拝、皇帝礼拝はセットになっていたから、この当時、偶像崇拝に加担せずに富むということはあり得ないことだった。

→ラオディキアの教会の富は町と一体化した妥協の産物であることが明白

・それゆえ、イエス様からの評価は、見える所と真逆であった。

・お金持ちの教会に「買いなさい」とは、持っている富を全部手放すことになるとしても、考え直す価値のあることだということ。

・彼らの「行い」は、永遠の神の国にとって無価値であった。

3)教会がイエス様を締め出す時、教会は堕落する

・「愛する者が叱られる」ことを心に刻もう。神の聖なる愛は、神の聖なる怒りと裏表である。怒りのない愛は、ただの甘やかしである。

・私たちは神の怒りにおびえるのではなく、神の愛に震えるべきである。怒りにおびえた「悔い改め」は本物にならない。

・「戸の外に立って叩く」人の姿は、貧しくて、物乞いをする人の姿と重なる。ラオディキアの町には裕福さの陰でそのような人たちがいたことだろう。これはイエス様が教会の中ではなく、貧しい者の側にいるという衝撃的な幻である。

・教会が貧しい者たちに扉を開くとき、イエスの食卓を共に囲み、神の王座に共に着く神の国が立ち現れる。

結)耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。

・聖餐式において、主イエスの臨在を宣言し、信じて行うとしても、恵みにあぐらをかくような態度は戒められる。私たちに何が語られているだろうか。

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