エピソード

  • 天に備えられた未来~教会を正し、守る礼拝~(ヨハネの黙示録4章1節~11節)
    2025/02/09

    序)黙示録の中央部分へ ~「この後必ず起こること」とは?

    ・黙示録は、これから起こる未来を教える「データブック」ではない。

    ・「この後必ず起こること」とはダニエル書 2 章 45 節を暗示し、バビロンから始まる人間の帝国が打ち砕かれ、神の国が全地に満ちるという狭い意味で理解するべきことである。参照:16 章 19 節

    ・「この後必ず起こること」を順を追って教えるものでもない。1章 19 節で「あなた(ヨハネ)が見たことを…書き記せ」と言われており「私は…見た」で幻は 40 区分に分かれている。

    ・「今あること(過去~現在)」「この後起ころうとしていること(現在~未来)」は区別できるが、分離できない。神は時間を超越するお方。

    1)幻のスタート地点:天に備えられた神の国

    ・啓示のゴールは 21~22 章であり、この天が地に降りてくること。4 章の宝石の輝きが 21 章で新しいエルサレム(全世界)に満ちる。

    ・4 章の幻は、全体として「神の国」を象徴している。

    2)神の国~御心が隈なく行われる場~

    ・「御座」=王座であり、世界を治める御心が示される場である。御座の周りには、御言葉を行う存在(稲妻、声、雷鳴、御霊)が控えている。参照:詩篇 148 篇

    ・神の御座に連なり、共に治める者として「長老(王に準じる存在)」が描かれる。神の国は神だけが王として治めるのではなく、人間が神と共に治める世界。

    ・スミルナの教会に「冠」は約束され(未来)、フィラデルフィアにはすでに与えられている(現在)。サルディスの教会の一部は「白い衣」をすでにまとっており(現在)、ラオディキアの教会の中で悔い改めるなら与えられる(未来)ので、この幻は、今と未来が重なっている。

    3)神の国~礼拝により栄光が神に帰せられる場~

    ・「四つの生き物」は、神によって造られたすべての息あるものを象徴する。(参照:詩篇 103 篇)「目でいっぱい」の表象は、眠ることのない礼拝。

    ・神の国は、すべての造られた者が、永遠に神に感謝し礼拝する場。

    ・私たちがこの地で礼拝するとき、天の礼拝をなぞるように生きる時に、神の国はこの地に見えるようになっていく。

    ・「冠を投げ出す」のは与えられた「勝利」が神のおかげであることを告白する行為であり「神に栄光を帰する」こと。

    結)礼拝によって、正され、守られる教会

    ・唯一の創造主を礼拝することは、霊肉二元論に対抗し、神々に存在の余地はないことを明確に表現する。

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    49 分
  • 教会をあきらめない愛(ヨハネの黙示録3章14節~22節)
    2025/02/02

    序)油断大敵:「自分たちは大丈夫」は危険

    ・人は神ではなく、教会は人の集まりであるから 100%大丈夫ということはないが、まったくダメでもない。堕落した私たちを見捨てないイエス様がおられる。

    1)教会が「創造の源」から遠ざかる時、教会は堕落する

    ・教会は 100%大丈夫な「アーメンである方」につながる時、与える恵みにあずかり、この世界を神の恵みで潤すことができる。

    ・しかし、信頼すべき方を見失うと、与える手を閉ざし、けちになる。

    ・「熱いか、冷たいか」は熱心さの話ではなく、役に立つかどうかの話。

    →ラオディキアの町には水源がなく、ヒエラポリスの温泉かコロサイの清水を引いて来ていたが、距離が長いため生ぬるくなっていた。

    2)教会が町に溶け込んでしまう時、教会は堕落する

    ・ラオディキアの町の三大産業は①銀行業、②医療産業(目薬)、③繊維業(黒紫色の羊毛が特産品)。そして職業と偶像崇拝、皇帝礼拝はセットになっていたから、この当時、偶像崇拝に加担せずに富むということはあり得ないことだった。

    →ラオディキアの教会の富は町と一体化した妥協の産物であることが明白

    ・それゆえ、イエス様からの評価は、見える所と真逆であった。

    ・お金持ちの教会に「買いなさい」とは、持っている富を全部手放すことになるとしても、考え直す価値のあることだということ。

    ・彼らの「行い」は、永遠の神の国にとって無価値であった。

    3)教会がイエス様を締め出す時、教会は堕落する

    ・「愛する者が叱られる」ことを心に刻もう。神の聖なる愛は、神の聖なる怒りと裏表である。怒りのない愛は、ただの甘やかしである。

    ・私たちは神の怒りにおびえるのではなく、神の愛に震えるべきである。怒りにおびえた「悔い改め」は本物にならない。

    ・「戸の外に立って叩く」人の姿は、貧しくて、物乞いをする人の姿と重なる。ラオディキアの町には裕福さの陰でそのような人たちがいたことだろう。これはイエス様が教会の中ではなく、貧しい者の側にいるという衝撃的な幻である。

    ・教会が貧しい者たちに扉を開くとき、イエスの食卓を共に囲み、神の王座に共に着く神の国が立ち現れる。

    結)耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。

    ・聖餐式において、主イエスの臨在を宣言し、信じて行うとしても、恵みにあぐらをかくような態度は戒められる。私たちに何が語られているだろうか。

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    39 分
  • 開かれた門の力(ヨハネの黙示録3章7節~13節)
    2025/01/26

    序)イエス様を信じ、困難を乗り越え、御国を目指して歩む教会

    ・「わたしの(忍耐の)ことばを守る」…箴言 7:1 の言い回しを引用しており、イエス様の忍耐によって示される知恵ある生き方を指す。

    ・「わたしの名を否む」(=イエス様を主としないあり方、行動)教会が多かった中で、真実さが保たれていたのがフィラデルフィア教会だった。

    1)「誰も閉じることのできない門」=「開かれた門」とは何なのか。

    ・黙示録は、大きな区分が区切りを迎える一つ手前で、次の区分で詳しく展開される事柄が先取りして導入される構造になっている。

    →14 章 8 節で「大バビロンが倒れた」と記され、詳細は 17 章以降展開

    →ここで提示される「門」が 4 章以降に展開されるとわかる。

    ・開かれた門の先に「御座についておられる方(父なる神)」がおられる。

    ・「門」というギリシア語は神殿の聖所と至聖所の区切り(至聖所の入口)部分を指すことができる。

    →「門」は交流の場である。フィラデルフィアの町は「東洋への門」という別名を持ち、国際交流の場所であった。一般的に、古代の門は、市場、会議、教育、裁判の場であった。

    ・「開かれた門」とは神との豊かで親密な交わりへの招きを意味する。

    2)「鍵を持つ方」に愛されている確信~開かれた門の力①

    ・「鍵を持つ」とは所有権と裁量権をもっていることを意味する。1 章では「死とよみの鍵」と記され「ダビデの鍵」と裏表の関係にある。罪をもったまま神の前に立つなら死ぬ。罪の赦しが鍵である。

    ・「サタンの会衆に属する者」とは外見はユダヤ人だが内実が神の民にあるまじき者、迫害者のこと。彼らが「足もとにきてひれ伏す」とはイザヤ書 60 章 14 節の暗示引用。イザヤ書では、異邦人がユダヤ人の足もとにひれ伏すことで、まことの神を認めるのだが、ここではその関係が逆転している。

    ・この者たちを教会に「与える」と主は言われる。それは迫害者が教会の忍耐を通して、信仰者に変えられるという約束。

    3)誘惑を退け、勝利する~開かれた門の力②

    ・「地上に住む者たち」=「地に住む者たち」と訳される「見かけ倒しの信仰者」のことを意味する。試練(誘惑)により、その本性が明らかになる。

    ・開かれた門に出入りし、神と交わり、知恵を得る者は、誘惑(よその女の企み)を見抜き、これに惑わされない。それが「試練の時には、わたしもあなたを守る」の意味。

    結)「御国の門(かど)」に勇みて昇らん!

    ・主イエスは、神を豊かに親しく知る、知恵の泉へと招いて下さる。

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    40 分
  • 今日、神の御前に立つ(ヨハネの黙示録3章1節~6節)
    2025/01/19

    序)イスラエルの七つの祭りと黙示録

    ・春の 4 つの祭りは、イエス様の初臨のみわざを示すものである。

    ・秋の 3 つの祭りは、再臨に向かうみわざを示す。仮庵の祭りは新天新地の永遠を示し、宥めの日(別訳:贖いの日・大贖罪日)が再臨を示すので黙示録には宥めの日のモチーフが行き渡っている。

    ・宥めの日はユダヤ人にとって年毎の審判の日。十日間の悔い改めが認められれば「いのちの書」に名前が残されると考えられた。黙示録はこれを神の国の完成と永遠のいのちに応用して語っている。

    1)教会が「死ぬ」とは?

    ・「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」の「あなた」はキリスト者個人のことではなく地域教会を一人の人として見立てて語っている。個々人が霊的に「眠っている」結果、教会は死ぬ=存在目的を見失う。

    ・「目を覚ます」ことは「盗人」に警戒することに関連して語られていることから、教会の「死」は、世界の闇と向き合い、燈をともすこと、夜間警備の務めを果たしていないということ。私たちは朝をもたらすことはできないが、闇の中で無力なわけでもない。

    2)祈りを失った世界の危機

    ・「目を覚ます」ことと「祈る」ことは関係が深い。霊的に眠るとは、祈りを失うこと。祈りによって天とつながる世界に神の国は興されるが、祈りを忘れさせる力が働くのが、今の世の闇である。

    ・歴史の中で教会が始めた奉仕事業(保育園、幼稚園、学校、介護施設等)から、祈りが失われた結果、闇の力に飲まれている現状がある。

    3)「宥めの日」の目的

    ・「宥めの日」は祭司たちが「白い衣」をまとい奉仕する日である。この日は、神様の臨在の光が、神殿に維持されるために、儀式が行われた。これが原型になり、究極の宥めの日は、全世界に神の臨在が満ちる日。私たちの歩みは、すべてこの日に向かうものであり、教会はその拠点。

    ・祈る者は、祈りの答えを受け取り、祈りの答えそのものになっていく。

    結)「目覚めている者」だと慢心しないこと

    ・このサルディスの教会宛ての手紙には目覚めている「彼ら」が出て来るが、黙示録の読者とは別の存在であるかのように描かれている。これは読者にへりくだりを求め、他の信仰者の祈りの生活を敬い模範とすることを教える。

    ・誰もが「眠り」に誘われる。明日が再臨という緊張感をもって祈ろう。

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    43 分
  • 真の預言で御国を生きる(ヨハネの黙示録2章18節~29節)
    2025/01/12

    序)ティアティラ教会の特徴

    ・7つの教会への手紙の 4 番目で、キアスムス(対称構造)の中心に位置。

    ・現在進行形で偽預言者が存在している教会。この教会を守ることがヨハネの使命の一つであった。

    1)「預言」と「予言」~旧約聖書の背景~

    ・「預言」…神のことばを預かって語ることで、神様の思いと一つであることが重要である。未来のことを含む場合もある。

    ・「予言」…未来について言い当てること。ヨハネの黙示録は、新約聖書唯一の預言書だが予言書ではない。

    ・預言者の代表と言えばエリヤであり、エリヤ物語はこの箇所の背景。エリヤは主にアハブ王に遣わされた。

    ・預言の第一目的は、神の国をこの地上に実現するために置かれた王が、その道を外さないようにすること。

    ・新約時代において、王=イエス様のからだである教会(クリスチャンひとりひとりを含む)になる。

    ・イスラエルは神の選びに慢心したが、教会も同じ間違いを犯しやすい。悪い道を選べば、悪い結果を招くのは、神の民も変わらない。

    ・預言の言葉は、神の国を担う人々に対して自浄作用をもつ言葉である。

    2)ティアティラ教会に求められたこと

    ・「燃える炎」や「光り輝く真鍮」は、この町の産業である金属加工業になぞらえた表現である。教会から不純物を取り除き、強く堅く、美しくするイエスの力を表現する。

    ・「イゼベル」は個人名ではない。誰がイゼベルかを識別し、その影響から離れること、健全な教えに留まることが求められた。イゼベルをさばくのはイエスご自身である。

    ・イゼベルの「子ども」とは弟子のこと「姦淫を行う」とは経済支援の見返しに自分の都合のよいことを言ってもらう関係を構築すること。

    ・このイゼベルに対して、悔い改めの余地が与えられているという恵みに注目する必要がある。さばきの言葉は、エリヤの物語を反転している。

    ・「サタンの深み」を知るとは、偽預言者の教えに従いその旨味(不道徳、非倫理的な行動の肯定)を味わうこと。ここにはまると、黙示録の言葉が心に届かなくなる。

    結)神の国の王、平和の器として

    ・指導者依存に陥らず、かといって独り善がりにならない自立した信仰の重要性を教えられる。

    ・神の国は、みんなでイエス様のような仕える王になる世界。

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    54 分
  • さあ、祝福を生きよう!(詩篇134篇1節~3節)
    2025/01/05

    序)「さあ」が詩篇 134 篇の鍵

    ・「さあ」=ヘブル語「ヒネー」=「見よ」「ほら」

    ・「都上りの歌」…シオン(エルサレム)への巡礼の旅に際して歌われたとされる詩篇(全部で 14 ある)

    ・神様のみわざの手ごたえを見て招かれる「さあ」

    1)今日における「都上り」

    ・「都上り」は、私たちの人生の中で、教会の営みの中で、神の国の実現(世界を神の価値観・正義と平和へと良い変化を期待して取り組むこと)に向かう短期的なプロジェクトに適用できる。

    ・デジタル・イノベーションと無縁でいられない社会で、私たちはどのような存在であることが期待されているのかといえば、罪から解放されるという霊的変化である。世に迎合しない「変わった存在」=「地の塩」「世の光」であることは世界を変える奉仕。

    ・積み重ねられる「都上り」の先に、神の国の完成=再臨の時がある。

    2)主の家で仕える者への呼びかけ

    ・「神の都」は、旅をしてきた者と旅人を待っていた者とが、一同に会して礼拝する場所である。

    ・「夜ごと」の奉仕は、祭壇の火を保つ大変な務めだが、惰性に陥りやすい。そういう危険のある「しもべたち」に「さあ」と呼びかけられる。夜明けとともに、朝日と共に上って来た礼拝者たちを「見よ」と招く。

    ・神の国において何より重要なことは、存在の喜び(神/自分/隣人)である。「できる/できない」は二の次で「いる/いない」が一番の関心事。

    ・礼拝に「いる」喜びが、「何かができないと認められない世界」から人を救う。

    3)手を上げて、祝福のループに生きる

    ・「手を上げる」所作から学ぶのは、何も持たずに神に求める姿勢。普段握っているものを手放し、素直に、遠慮しないで神を求める。

    ・(祝福を感じて)「さあ、主をほめたたえよ(=祝福せよ)」で始まり「主が…あなたを祝福されるように」で結ばれる。

    ・「祝福する」とは、言葉によって、相手を認め、ほめる、愛を伝えることも含みつつ、相手に仕えるということを、跪いて約束するもの。

    ・私たちの祝福を受け取られた神は、私たちに仕えてくださる!この無限の祝福のループからあふれる善き物で、世界を変えることが願い。

    結)普遍性と地域性が同居した祝福

    ・Glocal という造語:Global(地球規模) で考え、+Local(地域単位)に行動するということ。「天地を造られた主 (Global)」が「シオンから(Local)」祝福される。今や「シオン」は世界中に点在する。

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    47 分
  • 生ける石として築き上げられる(ペテロの手紙第一2章4~6節)
    2025/01/01

    キリスト教たんぽぽ教会(2025年1月1日)礼拝メッセージです。 語り手:稲垣 博史 師 聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 たんぽぽ教会WEBサイト https://tanpopochurch.com

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    29 分
  • キリストの力におおわれる~弱さという誇り(コリント人への手紙第二12章2節~10節)
    2024/12/29

    序)コリント教会の状況

    ・コリント教会は、パウロがおよそ 1 年半をかけて、この町でキリストを宣べ伝え、生まれた教会。コリントの町は「神々」でいっぱいだった。

    ・パウロがコリント教会を離れた後、様々な「教師」が来訪し、偽使徒も入り込み、混乱が起こっていた。この状況に対して書かれた手紙がコリント人への手紙第二である。

    1)パウロが誇る人(2 節~5 節)

    ・「キリストにある人」…キリストと結びついて、一致していた人。

    ・「第三の天」…当時「天」は、三階層で考えられていた。第三の天は、地上から遠い、神のおられるところ=「パラダイス(4 節)」

    ・幻を見たくて見たのではなく、神の意志によって不思議な経験をさせられた人を、パウロは誇るという。

    2)素晴らしさとおろかさと(6 節~8 節)

    ・他人事のように書いていた人物が、実はパウロ自身のことなのか?

    ・この表現は、この啓示の出来事の主体が神の側にあることを際立たせる。

    ・もしこの経験がパウロのものなら、自分の正統性を証明することになったはずだが、そういう風に用いることはしない。

    ・「素晴らしすぎて」という表現からは、相当のものだったはずだが、一切語られない。その代わり肉体に「とげ」が与えられたと語られる。 ・「とげ」が具体的に何かはわからないが、「サタン(神に敵対するものだが、神の許しなしには人間に害を加えることはできない)の使い」であることは理解していた。

    ・パウロはこの「とげ」を去らせてくれるように祈る。「三度」はたった3回というより、神の領域に関連する完全数。

    ・「とげ」はパウロを「打つ=打ちのめす」ものであり、パウロの苦悩が思われる。

    3)弱さという誇り(9 節~10 節)

    ・パウロは、神からの答えを得るのに、かなりの時間があったように思われる。それが 9 節の言葉であった。

    ・「とげ」が取り去られ、肉体の平穏が戻って来ることを希望したパウロに対して、神の恵み、憐れみが十分与えられていると告げられる。

    ・弱さゆえに、神の力は完全に現れるという神の逆転。

    ・弱さを植え付けられた自分を、自分自身が受け止めることができて初めて、わが身に起きているその現実を受け入れることができる。

    結)キリストの力におおわれる

    ・キリストの力が自分の弱さをおおい、自分自身をも強くされるに至る。

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    34 分