エピソード

  • すべてののろいを終わらせるために(マルコの福音書15章29節~32節)
    2025/04/13

    序)「通りすがりの人たち」の実相

    ・朝 9 時から 12 時まで、マルコは嘲られるイエス様を描く。

    ・ゴルゴタはエルサレムに出入りするメインストリートから外れており「通りすがりの人たち」はわざわざ出向いた可能性が高い。

    ・彼らの発言からイエス様の宮きよめに反発した商売人の関係者だろう。

    1)現場にいなかった「祭司長たち」

    ・「同じように」というのは「通りすがりの人たち」と同調しているという意味で「一緒になって」という意味ではない。

    ・祭司長たちの言動は、3 人称でありイエス様に直接向けられる 2 人称の表現になっていない。3 人称命令形は、祈りで使われる文法!

    ・「代わる代わる」→「互いに」イエスを嘲り合っていた。

    ・この日は過越しの祭りであるから、宗教的汚れを受ける可能性の高い死刑執行の場に、祭司長たちが出向くことはあり得ない。

    2)十字架の場面の情報源

    ・「通りすがりの人たち」の声を聞いてマルコに証言したのは誰か。イエスの大人の弟子たちは逃亡しており、女性たちは遠巻きに眺めていた。

    →最も可能性が高いのは、十字架刑を執行したローマの百人隊長(15:39)

    ・現場にいなかった「祭司長たち」の秘密裏の会話を証言できたのは誰か。それはそこに一緒にいた「誰か」で、後に悔い改めて、イエス様を信じるようになった人である。(使徒の働き 6:7 を参照)

    ・この記事は、イエス様を嘲った者による罪の告白を基に語られている。

    3)浮かび上がる十字架の意味

    ・「他人は救った」と祭司長たちは認めている。これは病の癒しや悪霊追放のことを指すが、祭司長たちはこれを悪霊のかしらの力に帰した。そういう人物ならば、神に呪われて死ぬはずであり、十字架はその証明だった。本物のメシアなら十字架から降りる奇跡を起こせるだろう。しかし「自分は救えない」=偽メシアであることは決定的。

    ・けれども、イエス様は十字架を降りる以上の救いのみわざである「よみがえり」を果たされた。こうなると、イエス様を嘲った人々が呪い殺されてしかるべき、となる。しかし福音は彼らに救いを提示した。

    結)罪の縄目から解放する救い主

    ・侮辱した人々は、侮辱せずには生きていけない人たちだったと考えられる。誰かの被害者が、誰かの加害者になるのが、罪ののろいの世界。

    ・私たちに必要なのは、こののろいの連鎖の世界から抜け出すことであり、イエス様の十字架は、その道を開く。すべてののろいを受け止める十字架の前に「自分が嘲る者である」と告白する時、私たちは救われる。

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    42 分
  • 十字架という王座(マルコの福音書15章22節~27節)
    2025/04/06

    序)過去の意味を変える神のみわざ

    ・イエス様を信じて、ついていく人生=神の国を生きる人生は、最も悪い状況からでも逆転勝利を生み出す力をいただいて生きることができる。

    ・過去の出来事は変えられないが、その意味を変える神の恵みがある。

    1)嘲りと蔑みに満ちた十字架刑~史上最悪の死刑方法~

    ・ゴルゴタ(アラム語)=どくろ=カルバリ(ラテン語)は、都の外にあった十字架刑の執行場所に向けて、総督官邸から行列が組まれる。イエスの首には「ユダヤ人の王」と書かれた札が提げられていた。

    ・王の凱旋行進を模しながらも、嘲りに満ちた行進は、ゴルゴタに到着し「没薬(苦味)を混ぜたぶどう酒」によって最高潮に達する。

    ・主イエスの身体からはぎ取られた衣は兵士たちによってくじ引きにされるが、マルコはこれを詩篇 22 篇の御言葉(ダビデが王位を追われ都を追われた時に関連した嘆きの歌)によって綴ることで、最悪の場面において、神のことばが成就していくことを暗示する。

    2)右と左に並べられた強盗~ピラトの思惑~

    ・ルカの福音書では「強盗(バラバの仲間で“革命家”の意味)」と主イエスとのやり取りが記されるが、マルコの目的は別のところにある。

    ・マルコ 10:35~37 で、イエスが神の国の王となる時、その右と左に座ることを弟子たちは求めていた。いわゆる「右大臣と左大臣」である。

    ・主イエスは弟子たちの願いに対して「わたしの右と左に座ることは、…備えられた人たちに与えられるのです。」と答えられた。そして 15 章で「右と左」に「強盗」が両脇を固めるという事実に向き合わされる。

    ・三本の十字架、その中央に「ユダヤ人の王」を配し、王座を模すことで、ピラト流のユダヤ社会への侮辱となっている。

    3)十字架という王座~神の計画~

    ・ピラトの思惑を超えて、主イエスは十字架の上で本当に神の国の王になった。十字架は真の王座に、ゴルゴタへの道は勝利への行進になった。

    ・神の国は、この十字架を王座として、この世界を逆転させる。

    ・イエスに従う者が招かれているのは、自分の十字架を負って、イエスと共に右と左の位置につくことである。人間の目には最悪でも、神の目に栄光と映る場所が、十字架である。この場所こそ、神のよみがえりのいのちの力を受けられる場所である。(マルコ 10:43~44)

    結)この世界に栄光を取り戻すために

    ・神はあなたの人生を充実させる「幸福の神」ではなく、十字架という王座に、あなたと共に着いて、この世界を癒す働きを行おうとされている。

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    38 分
  • 痛みも侮辱も不条理も(マルコの福音書15章15節~21節)
    2025/03/30

    序)「完全完璧」をはみ出す神

    ・ギリシア哲学者たちは、完全完璧な神は苦しむことはない。苦しむとしたら、不完全な存在だと考えた。

    ・しかし聖書の神は、苦しみを知って(体験される)方である。

    1)十字架と区別される痛み~奇妙なむち打ち刑~

    ・ローマの十字架刑の慣わしからすれば、通常、十字架の前にむち打ちが行われることはなかった。

    ・ピラトはイエスを十字架につけることは不釣り合いだとわかっていて「群衆を満足させる」ことに腐心したので、むち打ち刑を決めた。その結果、二重の刑罰が執行されてしまった。

    ・ローマのむち打ち刑は、ひどく残酷なもので、回数の上限はなく、むち打ちだけで死に至る場合もあった。そのようなむち打ちの後では、十字架を担ぐことは不可能で、クレネ人シモンが担がされることになった。

    2)無意味で理不尽な苦しみを救うもの

    ・十字架の苦しみは、すべての人の罪を背負い、身代わりに死ぬという意味がある。しかし、このむち打ちはそのために必要なものではない。

    ・意味を見出せない苦痛が、私たちの人生にも影を落とす。

    ・福音は、その無意味な苦しみをイエスが最大限味わわれたと記すことによって、苦しむ私たちとの繋がり(絆)を作るという意味を生み出す!

    ・苦しむ姿を見ることは、精神的ダメージを負う。神は苦しむ世界を、ご自分の愛する者同士が虐げ合う世界から目を離されない。

    ・復活のキリストの身体に、十字架の傷跡は残されたが、むち打ちの傷はすっかり癒されていた。イエスのいのちに繋がる時、無意味な苦しみの傷は癒される。

    3)心に刻まれる無駄傷~侮辱されるイエス~

    ・皇帝の即位式を模した形式で行われたイエスへの侮辱は、十字架刑への手続きとは無関係な、兵士たちの鬱憤晴らし、無法地帯であった。

    ・聖霊によって、この出来事が聖書に記されたゆえに、このキリストの苦しみは、私たちの苦しみを包みこむ「包帯」になった。

    結)痛み苦しまれたイエスを信じることから生まれる生き方

    ・自分の痛みや苦しみをイエス様と比べて「私の痛みは大したことがない」と言い聞かせて我慢することは、不健康なことであり、孤立を促進する。真面目な人ほど陥りやすい罠。

    ・不条理な痛み、苦しみは主イエスとの連帯を生むとき、癒しのスタートになる。

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    34 分
  • 歪んだ世界で見出す希望(マルコの福音書15章6節~15節)
    2025/03/23

    序)「ロクでもない素晴らしき世界」

    ・この世界は素晴らしいもので満ちているのに、ロクでもない現実が突き付けられる。私たちは戸惑い、世界の意味、いのちの意味を問われる。

    ・私たちのいのちは「授かりもの」である。聖書を通して語りかけてくださる神との出会いが、私たちに希望を与える。

    1)私たちの世界と地続きの歪んだ世界~~A.D.30 年春のエルサレム~

    ・四者の登場人物によって、この出来事が展開する。

    ①ピラト:ローマ帝国の役人で総督。ユダヤ属州に派遣された。ユダヤ属州はローマ帝国の中で統治が難しい地域。ユダヤ人の唯一神信仰へのこだわりの強さがたびたび暴動を引き起こした。ピラトの人生哲学は「事なかれ主義」。正義や理想がないわけではないが、二の次だった。

    ②バラバ:ローマ帝国の支配からユダヤ人を解放しようと信仰心によって立ち上がり、革命を起こそうとしたが、失敗した。神が味方してくれると信じたが、そうならなかった。

    ③群衆:匿名の安心感の中で声を上げ、ピラトの脅威となった。

    ④祭司長たち:ローマが保護するユダヤ人の信仰に関する権威。ピラトの弱みにつけこんで立ち回る「ずるい人々」。

    2)ロクでもない人々のロクでもない行動が巻き起こす十字架刑

    ・この日の前日に祭司長たちは、総督に頼んで派兵し「お尋ね者」を捕らえていたが、ピラトの調べでは無罪放免がふさわしかった。

    ・祭りに合わせて行う恩赦で、この男を釈放すれば群衆の人気を取り、祭司長たちに一泡吹かせられるとピラトは計算した。

    ・ピラトの計算を超え、祭司長たちの思惑は強く、群衆は扇動され、ピラトの事なかれ主義も手伝って、十字架刑がねじ込まれる結果になった。

    3)ロクでもない世界をひっくり返す福音

    ・もしこの出来事がここで終わるなら、絶望しかないが、福音書には続きがある。この男(イエス・キリスト)は十字架にかけられ、死んで葬られて三日後、よみがえった!(参照:第一コリント 15 章 3~4 節)

    ・素晴らしき世界にロクでもないものを持ち込んでしまうのは、人間の心の闇(罪)。私たちの心から神が締め出されるなら、神のいない世界になる。

    ・十字架につけろと叫ぶ人々のただ中に、救い主イエスは黙って立っておられる。その罪をすべて引き取る救い主として彼は十字架にかかられた。

    ・救い主イエスを信じるなら、神が味方する革命があなたの心と人生に始まり、あなた自身が、この歪んだ世界で希望の人になれる。

    結)革命は一人ではできないから~A.D.2025 春の府中で~

    ・次世代を担う子どもたちのために、大人たちよ、輝こう!

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    39 分
  • 神の国を生み出すチーム(コロサイ人への手紙4章7節~11節)
    2025/03/16

    序)hi-b.a.の働きから教えられていること

    ・神の国が広まっていくために最も重要なのは、チームではないか。

    1)パウロのチームはどういうチームか

    ・ティキコ:苦しみの中にあるけれども、新しい神の国をこの地に表すために、奮闘している(コロサイ 1:24,29)パウロの様子を伝えるように、遣わされている。パウロと共に、「神の国を今この世界で表していく(3:1-4)」働きを担っている同労者であり、コロサイの人々を励ますために用いられた。

    →あなたのチームにいるティキコは誰だろうか。

    ・オネシモ:コロサイにいたピレモンのところから逃亡した奴隷で、パウロのもとで信仰をもった。難しい人間関係にしっかり向き合い解決するのがキリストと共に新しくされたいのちであることを表す人物。

    ・マルコ:バルナバのいとこで、福音書を書き記した人物。一時はパウロとは別行動をとった。神の国(イエスと一つにされた新しいよみがえりのいのちに生きる世界)のために働く同労者。

    →私たちは常に同労者の存在を必要としながら、神の国のために働く。

    2)困難の中で

    ・パウロのチームは、いつもすべてが順調だったわけではない。チームが困難に直面した時に、何ができるのか。

    ①失敗や人間関係に囚われるのではなく、イエス・キリストを見る(コロサイ 1:18-20)。

    →キリストを見上げる時、困難や不可能の中で、主は人の考えるところを超え、人間関係の回復を与え、共に働く素晴らしさを示し、そこから想像できないことを生み出してくださる。

    ②祈る(コロサイ 4:2-3)。

    →祈りによって、神様は「教会」を、パウロのチームのように、新しい命をこの世界に示す、「神の国を生み出すチーム」としてくださる。

    3)チームに加われない時にも

    ・私たちの人生には、「チームに所属していない」状況も訪れる。

    ・私たちは人生のステージの中で、誰しも、オネシモやマルコのように歩むことがある。

    ・それと同時に、そのような孤独、失望、わだかまり、諦めの中にあっても、イエス様を見上げて、その十字架と復活の命を受け取ることで、オネシモやマルコのようにチームに加わり、チームの一人として生きる機会が必ずやってくる(コロサイ 1:21,22)

    ・チームをこれから作るという状況(コロサイ 1:1)もある。

    結)私たちも心に励ましを受けよう

    ・将来、キリストが現れる時に、新しくされる、その新しい人として、今を生きるチャレンジを、受け取りたい。

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    36 分
  • 交わりの中で味わう神の奇跡(マルコの福音書2章1節~12節)
    2025/03/09

    序)この箇所のストーリー

    ・イエスは、彼のもとに集まった多くの人々に、イエスは、「みことば」を語って聞かせる。そこへ、四人の人が、中風の人を担いでイエスのもとにやってくる。群衆が大勢いて近づけなかったため、彼らは屋根をはがして穴を開け、彼をつり降ろした。

    ・イエスは彼らの信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

    1)「彼ら」の信仰を見て

    ・ここは非常に不思議な箇所。屋根をはがす行為は大胆であり、それほどまでに病の癒しを求めていた彼らの強い思いが伝わる。イエスは、この行動を「信仰」として受け取られた。

    ・もう一つ、注目すべきは、イエスは、「彼ら」の信仰を見られたこと。通常、信仰は個人のものであり、誰かに強制されたり、マインドコントロールされたりするものではない。しかし、この箇所では、「彼ら」という共同体としての信仰が強調されている。

    2)信仰はチームプレーである

    ・信仰は個人の決断であると同時に、共同体のなかで育まれるもの。中風の人は自分では動けず、四人の助けがなければイエスのもとに行くことはできなかった。

    ・同様に、私たちも誰かの助けを受けてイエスに出会ったはず。私自身、両親の影響で信仰を持つようになったが、彼らは私に教会への出席を強制することなく、時間を共に過ごしながら聖書の話を聞かせてくれた。

    3)あえて奇跡を起こされるイエス

    ・イエスは「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。当時の人々は病を罪の結果と考えていたため、イエスは病の癒し以上に、罪の赦しが重要であることを示された。

    ・律法学者たちは「神以外に罪を赦すことはできない」と非難する。イエスは彼らの思いを見抜き、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言い、中風の人を癒された。

    ・病の癒しは必須ではなかったが、信じない律法学者たちを招くために、イエスはあえて奇跡を行われた。

    結)交わりのなかで起こる奇跡

    ・私自身、何度も人生のなかで神の奇跡を経験した。しかし、明らかな奇跡を見ても信じなかった律法学者たちのように、私たちも神の奇跡に気づかなかったり、忘れてしまったりすることがある。

    ・イエスは「彼らの信仰」を見て、中風の人を癒された。私たちも一人ではイエスのもとに行けないとき、支えてくれ、多少強引にでもイエスのもとに連れて行ってくれる友が教会には備えられている。

    ・そして、私たちもまた、誰かの助け手として招かれている。このイエス・キリストの招きに、あなたはどう応えるか。お祈りしよう。

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    34 分
  • 受難の先へと進むために(マルコの福音書9章2節~10節)
    2025/03/02

    序)受難節を意義深くする「神の国の福音」

    ・「天国に行ける福音」では受難節は「イエス様ほんとにすみません」の気持ちが少し強まる程度になってしまうのではないか。

    ・「神の国の福音」へと理解が深まる時、イエス様の受難と無関係に思われた受難(年度末の苦しさ等)が繋がり始める。

    ・愛をもって苦しみを担うなら、イエス様の十字架の力の分け前に与る。

    1)「六日目」に山に登る意味

    ・「六日目」という翻訳は「六日後」の方が妥当。イエス様の行動は明らかに出エジプト記 24 章 12~16 節を意識している。

    ・イスラエルの信仰告白(契約締結)→六日後→モーセの登頂⇒ペテロの信仰告白→六日後→イエスと 3 人の弟子の登頂という並行関係

    ・「高い山」に登ることは、天に近いゆえに、神との特別な交わりを期待してのことであった。

    2)山の上での圧倒的経験

    ・太陽の光と見間違うほどの、それ以上の光がイエスの内側から放たれた。「メタモルフォーゼ(変わる)」という特別なギリシア語。

    ・モーセとエリヤは、シナイ山の上で神の栄光に接した人物であり、この場面は、その再現である。イエスその人が、主の栄光そのものである。

    ・この姿はペテロを始め当時のユダヤ人の期待していたメシアの姿

    ・「幕屋」を作るとは、恐ろしい光を和らげ、閉じ込めるためのもの。この山を新しい聖地にしてはどうかという提案である。

    ⇒この提案は却下され、代わりに神の声が響く。

    3)この出来事が意味すること

    ・ペテロだけでなく他に二人の弟子が帯同したのは、この出来事が夢幻ではなく事実・真実であることを証明するため。

    ・このタイミングでこの出来事が起こり、十字架と復活まで秘密にされ、その後、福音書によって公開されたのは「受難の先へと進むため」である。

    ⇒主イエスご自身のために:モーセとエリヤ(旧約聖書)との対話によって、受難の道を確認され、御父の「これはわたしの愛する子」という声をたましいに刻むため。存在そのものが愛されている確信なしに自分を捨てることは不可能である。受難の先に、世界全体が輝きを取り戻す御国が来る。

    ⇒弟子たちのために:「彼の言うことを聞け」とは、十字架にかかるキリストという不可解を抱えたままでも従い続けるための励まし。そして、復活のキリストに出会い、弟子たちもメタモルフォーゼし、同じ道を歩む。

    結)臨在に触れ、山を下りる~受難の先へと進むために~

    ・受難の現実に、「いつものイエス様」と降りていく先に、栄光がある。

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    36 分
  • 受難のイエスの背中を追って(マルコの福音書8章34節~9章1節)
    2025/02/23

    序)神の国を妨げているもの

    ・免疫が不具合を起こすと、自分の身体を攻撃してしまうことがある。

    ・安息日が、息苦しい日になってしまったユダヤ社会

    ・神殿が、特権階級の私腹を肥やすシステムになってしまった世界

    →「問題はローマ帝国なのだ」と考え、打倒ローマを掲げていた人々に、イエス様は「自分を捨て」「自分の十字架を負う」ことを提示する。

    1)「たましい」を救う道

    ・「いのち」プシュケー:たましいと訳され、肉体的な生死とは違う次元、ここでは精神的な「いのち」「たましい」であり、名誉や誇りという要素が含まれる。「自分のいのちを救おうと思う」→「自分の誇りを守ろうとする」という意味で読むことができる。

    ・「いのちを失う」とは、自分の大切にしてきた誇りや名誉を失うこと

    ・ローマを打倒し、自由と独立を勝ち取ってこそ「たましい」は救われるという機運が満ちた世界でイエス様の言葉は語られている。

    ・「わたしと福音のためにいのちを失う」とは、イエス様の価値観に生きるなら、これまでの誇りを失うことになるが、新しい神の民としての「たましい」を得ることになる。

    2)「たましい」が損なわれていることが問題

    ・「全世界を手に入れる」とは浅ましい野望のことではなく、全世界を治める神の国を描いている。問題は、どういう状態でそれに取り組むか。

    ・「たましいが損なわれた(いのちが失われた)」状態では、神の国は到来しない。「神のため」と言いながら、自分の名誉(私利私欲)のために生きている状態では、神の国ではなく獣の国を造ってしまうから。

    ・「たましい」がサタンに売られた状態では、どんなことも無益で、いやしがたい。イエス様時代のユダヤ当局はそうなっていた。

    ・「姦淫」は、神を愛すると言いながら、自己愛に陥ること。

    →「わたしとわたしのことばを恥じる」…イエス様の生き方や価値を否定すること。そこに救いがないことが明らかになるのが「その人を恥じます」の意味である。

    3)決定的瞬間~神殿が破壊される日~

    ・「人の子が、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき」、「神の国が力をもって到来しているのを見る」時とは、再臨の時では意味が通じない。これはエルサレム崩壊を暗示した表現である。(参照:マルコ 13 章)

    ・この日、ユダヤ人は「たましい」を救おうとして「いのち」を失った。

    結)受難のイエスの背中を追って従い続けよう

    ・自分を捨てるとは自虐ではなく、自分を「パイプ」の終点にしないこと。

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    46 分