• 第471話『理性と情(なさけ)を使い分ける』-【千葉県にまつわるレジェンド篇】儒学者 荻生徂徠-
    2024/09/07
    その書物が、現代の経済学、経営学に影響を与えていると言われる、江戸時代中期の儒学者がいます。
    荻生徂徠(おぎゅう・そらい)。
    彼は、5代将軍綱吉や8代将軍吉宗に仕え、幕府ご意見番として政策の示唆・立案を任されました。
    彼の逸話の中で最も有名なものは、赤穂浪士の討ち入り事件の裁きかもしれません。
    松の廊下で刀を抜くのは、打ち首必至の御法度。
    当時の法にも厳罰が記されていました。
    47人の斬首は、誰もが納得する結末でしたが、徂徠は、47士たちの「義」を重んじ、名誉ある切腹を進言したのです。
    切腹と斬首。
    それは天と地の差があったのです。
    法の裁きと、情け。
    二つを使い分けることで、徂徠は、世の中を治める真理にたどり着きました。
    『徂徠豆腐』という、有名な講談、あるいは落語があります。
    芝・増上寺の門下で、ひどく貧しい暮らしをしていた徂徠が、近所の豆腐屋から、ほどこしを受けたお話です。
    金のない徂徠に、毎日のように豆腐を持ってきてくれる豆腐屋。
    彼が恐縮して断ると、代わりに『おから』の煮つけを分けてくれるようになったのです。
    やがて、徂徠が姿を消してしばらく経った頃、火事で豆腐屋は焼けてしまいます。
    そこへ、立派な身なりになった徂徠がやってきて、新築の店を与えたのです。
    「こんなことをしてもらってはいけません、いただけません」と辞退する豆腐屋の主人に、徂徠は言いました。
    「こいつは、新築の豆腐屋なんかじゃない、こいつは、ただの『おから』だよ」と。
    この物語には、もちろん脚色はありますが、徂徠の実際のエピソードが元になっていると言われています。
    ふだんは、歯に衣着せぬもの言いで、敵をつくり、「炒り豆を食べながら、ひとの悪口を言うのがイチバンの楽しみだ」と、うそぶいていましたが、常にひとを観察し、その心の行方を探ろうとしていたのです。
    「理性」と「情け」で乱世を生き抜いた賢人・荻生徂徠が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第470話『後悔しない』-【フランスにまつわるレジェンド篇】シャンソン歌手 エディット・ピアフ-
    2024/08/31
    フランス国内のみならず、全世界で今も愛される伝説の歌姫がいます。
    エディット・ピアフ。
    まだ記憶にも新しい、2024パリオリンピックの開会式。
    フィナーレを飾ったセリーヌ・ディオンが魂を込めて熱唱した歌、それはピアフの代名詞、『愛の讃歌』でした。
    難病スティッフ・パーソン症候群と闘い、満身創痍で歌ったセリーヌは、度重なる事故や病でボロボロな体でも歌い続けたピアフの姿と重なります。
    身長は140センチちょっと。体重は40キロに届くか届かないか。
    ステージネーム、ピアフは「小さなスズメ」という意味。
    そんな小柄で華奢な彼女の47年の生涯は、壮絶なものでした。
    母親から育児放棄を受け、祖母が働く売春宿で暮らした少女時代。
    目の病で失明の危機を経験。
    大道芸人の父親と二人、路上に立って歌う貧困生活をおくる。
    若くして妊娠、出産。しかし、その子を亡くす。
    アルコール依存。殺人事件の容疑者として逮捕。
    出会う男性が、事故や病で亡くなっていく。
    4度にわたる交通事故。大金をだまし取られ、借金生活。
    彼女は自伝に、自らの生涯を、こう表現しました。
    「私は、おそろしい人生をおくってきました」
    しかし、ピアフはまた、こうも記しています。
    「私は、なにひとつ、後悔していない。
    もう一度人生を と神様に言われたら、私はこの人生を選ぶ」
    2007年に公開された彼女の伝記映画『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』のラストシーン。
    ピアフに扮するマリオン・コティヤールが、まるで老婆のようにステージに現れます。
    やがて歌い始めれば、その力強さに、聴衆は魅了されるのです。
    歌ったのは、『水に流して』。
    私は後悔しない、代償を払い、全ての過去は清算したと、歌い上げました。
    「自分に起きたことは、いいことも悪いことも全部、私には同じこと」
    今もなお、圧倒的な存在感を失わないシャンソンのレジェンド、エディット・ピアフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第469話『善い行いをしなさい』-【フランスにまつわるレジェンド篇】政治家 シモーヌ・ヴェイユ-
    2024/08/24
    『フランス人に最も愛される政治家』と評されるレジェンドがいます。
    シモーヌ・ヴェイユ。
    ほぼ同時期に活躍した、同姓同名の哲学者の女性がいますが、今週は、政治家のシモーヌ・ヴェイユの物語をお届けいたします。
    パリオリンピック2024の開会式。
    フランスの歴史を作ったとされる10人の女性の銅像がセーヌ川沿いに並びましたが、その中に、シモーヌの像もありました。
    シモーヌ・ヴェイユの功績は、完全なる男性社会だった弁護士、判事という法曹界に飛び込み、治安判事、厚生大臣を経て、フランス人女性として初めて、欧州議会議員の議長に就任。
    厚生大臣時代には、人工妊娠中絶の合法化のための法案を議会に提出し、筆舌に尽くしがたい非難批判を受けながら、法案を可決に導きます。
    女性、移民や囚人など弱者のために、生涯を捧げたのです。

    ユダヤ系フランス人である彼女は、16歳のとき、ナチス・ドイツにより、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。
    母と姉と同じ収容所に入りますが、母が亡くなり、別の収容所で、父と兄を亡くします。
    収容所での壮絶な体験は、亡くなるその日まで、彼女を苦しめ、夜中に悪夢にうなされ、過呼吸になることは避けられませんでした。

    寒さと飢え、病、強制労働に苦しむ収容所の生活。
    でも、母は、亡くなる最後まで、シモーヌに言い続けました。
    「善い行いをしなさい」
    拷問を受ける同室の女性をかばい、自分もムチで叩かれる。
    それでも母は、毅然としていました。
    善い行いをしても、損ばかりするのではないか。
    人間は、しょせん、我が身だけが可愛い。
    実際に、飢えや寒さの極限状態では、わずかな食べ物の奪い合いだったのです。
    それでも、母は言う。
    「シモーヌ、善い行いをしなさい」

    回想録をもとに作られ、2022年のフランスの年間興行収入第一位に輝いた映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』のラストは、母に抱かれる、幼いシモーヌの姿でした。
    「母は、私の全ての規範です」
    そう言い切った伝説の女性、シモーヌ・ヴェイユが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第468話『リンゴひとつで天下をとる』-【フランスにまつわるレジェンド篇】画家 ポール・セザンヌ-
    2024/08/17
    ピカソやマティスにキュビズムという財産を残し、建築家、ル・コルビュジエには、世界を垂直と水平、直角で構築する手法を継承した、近代絵画の父がいます。
    ポール・セザンヌ。
    後期印象派の巨匠として、モネやルノワールと共に、日本人に大人気の画家ですが、彼が世の中に本格的に認められたのは、67歳でこの世を去ったあとのことでした。
    銀行家の父の莫大な財産を受け継ぎ、金銭的な苦労は、ほとんどなかったセザンヌ。
    ただ、自分の絵が認められるまでは、苦難の道のりでした。
    サロンには、落選続き。
    作品を発表すれば、誹謗中傷、罵詈雑言。
    落ち込んで、部屋から一歩も出ずに、絵を諦めようとしたことも一度や二度ではありません。
    そんな彼を励まし、支え続けたのは、同じ中学に通っていた親友、小説家のエミール・ゾラでした。
    風景画を自分の主戦場と捉えていたセザンヌが、なぜ、リンゴの絵を画くようになったのか。
    そこに、ゾラとの友情の証が隠されています。

    失意の中、部屋から一歩も出られなくなっていたセザンヌの目の前にある、籠いっぱいのリンゴ。
    彼は、リンゴをじっくり観察しました。
    匂いをかぎ、色を確かめ、並べ、重ねる。
    あるリンゴは、窓辺に置き、それが腐るまで毎日飽きもせず、眺めたと言います。
    そうして彼は、心に誓うのです。
    「私は、リンゴで、世界をあっと言わせる」
    リンゴを画いては破り、また画いては破る日々。
    彼は毎朝、自分にこう言い聞かせました。
    「私は、毎日進歩している。私の取り柄は、それしかない」

    のちにピカソは、セザンヌの『りんごとナプキン』という絵を見て、体がふるえるほど感動します。
    そこには、既成概念や古いしきたりを打ち破るチカラがありました。
    ピカソは、友人への手紙にこう書いています。
    「セザンヌは、私のただひとりの先生です。
    彼は皆にとって、父親のような存在なのです。
    そして、私たちは、彼に守られています」
    近代絵画の進化を担ったレジェンド、ポール・セザンヌが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第467話『揺るぎない思いだけが、人の心を動かす』-【フランスにまつわるレジェンド篇】ジャンヌ・ダルク-
    2024/08/10
    フランスを救った英雄として、今も語り継がれる、伝説の少女がいます。
    ジャンヌ・ダルク。
    パリ1区から2区。リヴォリ通りをルーブル美術館に向かって歩くと、右手にチュイルリー公園の緑が見えてきます。
    やがてピラミッド広場に到着すれば、そこには黄金に輝く騎馬像。
    その馬にまたがる女性こそ、ジャンヌ・ダルクです。
    彼女を主人公にした映画は40本を超え、イングリッド・バーグマンやミラ・ジョヴォヴィッチなど、名立たる名優たちがジャンヌに扮しました。
    また伝説の聖女を描いた絵画も枚挙にいとまがなく、フランスのゆかりの地に、彼女の銅像が数多く建っています。
    ナポレオンと並び称されるほど、英雄として崇められていますが、実は、彼女の評価・評判には、紆余曲折がありました。

    13歳で神の声を聴き、16歳で戦いに参戦、19歳で処刑されるという、まるでフィクションの主人公のような人生。
    そのあまりに現実離れしたストーリーに、架空の人物ではないか、あるいは時の権力者に捻じ曲げられた捏造の物語ではないかと、憶測やデマが飛び交いました。
    意外にも、1400年代に生きたジャンヌ・ダルクが、フランスの救世主だった女性として脚光を浴びるのは、400年もたってからのことなのです。
    きっかけは、1841年から1849年にかけて、二つの裁判資料が発表されたことでした。
    ひとつは、ジャンヌを異端として断罪する、処刑裁判の記録。
    もうひとつが、ジャンヌ亡きあと、遺族が起こした復権裁判文書。
    この二つの資料で、ジャンヌ・ダルクが実在の人物であり、しかも、神の意志に従順で誠実な、フランスを愛するひとりの少女だったことが証明されたのです。

    百年戦争の混乱の中、イングランド軍に包囲されたオルレアンという街を解放し、王太子だったシャルルを国王の座に導いたジャンヌ。
    しかし、コンピエーニュの戦いに敗れ、イングランド軍の捕虜になってしまいます。
    厳しい詰問を受けながら、彼女は、一度も自説を曲げませんでした。
    「私は、神の声を聴き、それに従っただけです」
    なぜ、19歳の若さで、そこまで強くなれたのでしょうか。
    奇跡の少女、ジャンヌ・ダルクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第466話『規格品の人生を歩まない』-【フランスにまつわるレジェンド篇】ファッション・デザイナー ココ・シャネル-
    2024/08/03
    ファッション・デザインによって女性の自由を獲得したレジェンドがいます。
    ココ・シャネル。
    イギリスの文豪、バーナード・ショーは言いました。
    20世紀最大の女性は、キュリー夫人と あともうひとり。
    それは、ココ・シャネルであると。
    シャネルは、多くの芸術家を支援しました。
    パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ストラヴィンスキー。
    彼女が支援するアーティストには共通点がありました。
    革新的で、独創性が飛びぬけていること、そして、それゆえに理解されず、ときには心ない批判、誹謗中傷につぶされそうになっていること。
    シャネル自身、いつも「人がやらないことをやり」、そのことで叩かれ、虐げられてきました。

    父の愛を知らず、母を早くに亡くし、孤児院で育ったシャネル。
    歌手になる夢を抱きますが、オーディションに落ちる日々。
    しかし、絶望の中でも、彼女はある信条を手放すことはありませんでした。
    それは、「特別な存在になるには、ひとと違っていなければならない」。
    シャネルは、自分が感じた違和感、疑問を大事に守り、そこからデザインを発想し、新しいファッションを創り出していったのです。
    初めて富裕層のパーティーに出席したとき、彼女は思います。
    「なぜ、女性は男性を喜ばすためだけに、カラフルな色を身にまとうのでしょう。
    女性の美しい肌をいちばん際立たせるのは、黒。
    だから、私は、黒一色でドレスを作りたい!」
    当時、喪服にしか採用されなかった黒い服を、一般的なものに変えたのは、シャネルだったのです。
    封建的な男性社会にあって、彼女の存在は疎まれますが、彼女は、生涯、生き方を変えませんでした。
    戦争をくぐりぬけ、87年の人生をファッションに捧げた賢人、ココ・シャネルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第465話『優しさだけが世界を変える』-【静岡にまつわるレジェンド篇】映画監督 木下惠介-
    2024/07/27
    静岡県浜松市出身の、映画監督のレジェンドがいます。
    木下惠介(きのした・けいすけ)。
    黒澤明と同時期に日本映画の隆盛に貢献し、国内外で人気を二分した巨匠です。
    木下が脚本を書き監督した、日本で最初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』は、今年8月、藤原紀香主演で舞台化されます。
    木下を師匠と仰ぐ、脚本家の山田太一は、「いつの日か、木下作品がもう一度注目されるときが、きっと来る」と語っていました。
    コメディ、感動作品、悲劇から社会派のシリアスものまで、幅広いジャンルの映画を撮った彼が、映画に込めた思いとは何だったのでしょうか。
    浜松市には、そんな木下の足跡をたどることができる施設があります。
    『木下惠介記念館』。
    館内には、監督が収集していた灰皿や、愛用していた机、ソファーや所蔵していた本などが展示され、まるでそこに木下惠介がいるかのような息遣いが感じられます。

    浜松の「尾張屋」という漬物を中心に扱う食料品店で生まれた木下は、両親の寵愛を受けました。
    幼い頃に、絶対的な愛情をあふれるほど注がれた彼は、ささやかな日常の中に「優しさ」を見つける天才になったのです。
    戦時中、『陸軍』という戦意高揚映画のメガフォンをとることを命じられた木下は、出征していく息子を涙ながらに追う母の姿を延々、映しました。
    しかし、陸軍からNGが来ます。
    「お国のために戦地にいく我が息子を見送るとき、母は、決して泣かない!」と。
    もしかしたら息子と二度と会えないかもしれないと思う母が、涙を流さないはずがない。
    木下は一歩も譲らず、結局、監督を降ろされてしまいます。
    彼は所属する松竹に辞表を出しますが、幹部に説得され、慰留を受け入れました。
    幹部のひとりは、言ったのです。
    「木下君、君の映画を待っているひとが、たくさんいるんだ!」
    英雄ではなく、市井のひとの弱さと優しさに光をあてた名監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第464話『ひとを幸せにする作品をつくる』-【静岡にまつわるレジェンド篇】画家 ピエール=オーギュスト・ルノワール-
    2024/07/20
    7月26日から静岡市美術館で開催される『西洋絵画の400年』でも観ることができる、印象派の巨匠がいます。
    ピエール=オーギュスト・ルノワール。
    淡く優しいタッチ。あたたかい色使い。
    描かれた幸せそうな人物たちは口元に笑みをとどめる。
    モネと双璧をなす、日本人に大人気の作家・ルノワールは、観るひとを豊かな気持ちにいざなってくれます。
    今回の静岡市美術館の展覧会では、彼の『赤い服の女』という名作が展示される予定です。
    当時流行していた、ふくらみがある袖が印象的な赤いドレスを着て、麦わら帽子をかぶったモデルの女性は、満ち足りた表情でこちらを見ています。
    全国展開の喫茶店の名前につけられるほど、日本人になじみがあるのは、その、観るひとを幸せにする絵の雰囲気によるものなのでしょう。
    もしかしたら、ルノワールを、ブルジョアの生まれで、幼い頃から苦労をしたことのない、幸せな人生をおくった画家、と認識しているひとが多いのかもしれません。
    貧しい仕立屋の息子に生まれた彼は、少しでもお金を稼ぐため、13歳から、磁器や陶器に絵を画く職人の見習いとして働きました。
    画家になることを目指し、絵画の学校に入っても、労働者階級の生徒は、彼ひとり。
    絵具を買うのもままならない生活からのスタートだったのです。
    サロンに挑戦しても、落選続き。
    仕事も、失業の連続。
    それでもルノワールは、絵を画くことをやめませんでした。
    それは、なぜだったのでしょうか。
    彼には、自分の仕事が人々を幸せにすることがあるという原体験があったのです。
    言い方を変えれば、自分の仕事の仕方ひとつで、ひとを幸せにするかどうかが決まるという経験を、早い段階で持つことができたのです。
    色彩の魔術師、ピエール=オーギュスト・ルノワールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    11 分