• 「田舎坊主の七転八倒」まとめ編<高野山へー救いようのない小坊主・親の心子知らず>
    2024/10/24

    2015年8月に発行した拙書「田舎坊主の七転八倒」の読み聞かせです。

    このまとめ編には優しいBGMを重ねました。

    紀の川のほとりにある田舎寺の縁側で、住職の四方山話を聞いているつもりで、気楽に聴いていただければなにより幸いです。

    合掌


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    18 分
  • 「田舎坊主の七転八倒」まとめ編<はじめに>
    2024/10/17

    2015年8月に発行した拙書「田舎坊主の七転八倒」の読み聞かせです。

    このまとめ編には優しいBGMを重ねました。

    紀の川のほとりにある田舎寺の縁側で、住職の四方山話を聞いているつもりで、気楽に聴いていただければなにより幸いです。

    合掌

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    5 分
  • 田舎坊主の七転八倒 <まとめ編のご案内>
    2024/10/11

    いつも田舎坊主の読み聞かせ法話をお聴きいただきありがとうございます。

    「田舎坊主の七転八倒」は、11日(金)の<おわりに>まで24エピソードお聴きいただきましたが、来週10月18日金曜日からはエピソードを2~3話ずつまとめた、「田舎坊主の七転八倒 <まとめ編>」をお送りいたします。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    合掌

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    1 分
  • 田舎坊主の七転八倒<おわりに>
    2024/10/10

    ここ40年で寺のようすは大きく変化しました。

    かつてお葬式は、住み慣れた自宅で行われました。上座敷を開け、タンスなどを移動し、障子やふすまを外し、親戚総出で片付けをしなければならなかったものです。しかし、いまではセレモニーホールなどで行われることが当たり前になり、役付きの人たちが葬列を組んでいく野辺の送りもなくなりました。

    また、20数年前まで行われていた土葬の葬送はなくなり、すべて火葬に変わりました。それにともない、お墓のようすも変わりました。平成7年ごろまでは埋葬した上に石碑を建てたものですから、基本的には個人墓の石碑が建てられていました。しかし今では先祖代々の石碑が主流となり、その中に納骨する祀り方に変わってきています。

    さらに法事は、この田舎でも専業農家の減少とともに勤め人が多くなって日曜日や祝日に集中し、休日に2軒以上が多くなったため、斎(とき)という食事に同席することがなくなりました。

    そして深刻なのは高齢化です。檀家さんも高齢の一人住まいとなり、坊主の方も後継者不足で高齢化しているのです。

    お寺の世界もこれからはITの時代となり、思わぬ変化をもたらすのかもしれません。しかし、時代は変わっても近くのお寺で般若心経と向かい合いお写経がしたい、少し心が疲れてくればお坊さんと話がしたい、仏事についても聞いてみたいなどの要望に応え、お寺を心のよりどころとして常に開放していかなければならないことはいうまでもありません。

    自坊不動寺では、平成17年から「土寺小屋」という寺子屋をはじめました。土曜日に開催する寺子屋ということで「土寺(どてら)小屋」と名付け、いまは15人ぐらいが来てくれています。寺子屋といえば対象が子どもというイメージですが、こちらはほとんどが大人の方です。「土寺小屋」ではお写経を中心にして般若心経の解説や、お釈迦さまの話し言葉で書かれた原始経典である「法句経」の解説、世間ばなしなどもまじえ法話をおこないます。

    「土寺小屋」でには途中、御弥津(おやつ)の時間もあり、この御弥津は住職や副住職が手づくりしたものをお接待しています。いままで60種類以上のオリジナルの御弥津が提供されました。手づくりのオリジナルですから、これを考えるのに大変苦労しますが、小屋生にとってみれば土寺小屋での楽しみの一つでもあるようですから、これからも頑張ってつくっていこうと思っています。

    ここ40年で寺のようすが大きく変化したとはいいながら、当初、強い拒絶反応を示した坊主という仕事が一番相性よく、自分に合っていたように思えることが、私にとって最大の変化だったような気がするのです。

    合掌

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    7 分
  • 田舎坊主の七転八倒<医は仁術ー七転八倒さえできない>
    2024/10/03
    平成27年1月28日、初不動の大祭を例年どおり開催しました。 その前日のこと餅まき用のお餅つきの際、私は腰に違和感を覚えました。もともと腰痛の持病はあったものの、いつもとは少し違う痛みなのです。しばらくたてば治るだろうと高をくくっていたのですが、痛みはだんだん強くなり、2月初旬に頼まれていたK町の公民館主催人権講演会には最強の鎮痛解熱剤と自分では思っているボルタレン錠を飲んで痛みを抑えお話しさせてもらいました。九十分間立ってお話しできるのか不安もありましたが無事講演を済ませることができました。 しかし腰の痛みはますます強くなり、2月中頃には車の運転もできなくなって妻の通院には義兄に運転をお願いしなければならないほどになっていました。 妻の通院から2日目、今度は右肩激痛のため右手が急にあがらなくなったのです。早速近くの整形外科でレントゲンを撮ってもらったところ、腰のすべり症と五十肩とのこと、リハビリを開始しました。ところがその2日後、左手中指の付け根の関節が異常に腫れ上がり、まるで左手甲にアンパンをのせたような状態になってしまいました。そしてその後まもなく今度は左手が全くあがらなくなったのです。その痛さたるや、両肩を引きちぎられるのではないかと思われるような痛みで、常に両手をお腹のあたり当てていることしかできないのです。この頃にはすでに食欲もなく、痛みのために寝ることもできず、椅子に座って寝る日が続きました。この間にも妻の介護はしなければなりません。 リハビリを2日続けて2日目の朝、私は39.2度の高熱を出したのです。娘にかかりつけの医院に連れて行ってもらい血液検査をした結果、即入院と言われました。しかし入院するには、まず妻の介護施設への入所を決めることや、私自身が関わっている保護司、患者会、難病相談窓口などへの多くの手続きを済ませなければなりません。私はとにかくあまりの激痛に早く入院したいと思っていましたが、手続きに丸一日かかってしまい、妻の入所を済ませた翌日、やっと公立N病院に入院することができました。 初診は内科で担当はN・T先生でした。来院後すぐ撮ったレントゲン写真を見ながら「多発性関節炎」と病名を教えていただきました。しかしその後念のためMRIとCTを撮りましょうということで、撮影後やっと入院室に案内されました。午前九時過ぎに来院して病室に入れたのは午後2時をまわっていました。 入院後痛み止めはボルタレンの徐放剤に代わりましたが、まったく鎮痛効果なく、あまりの痛さに「座薬がほしい」と、ついつい言っていました。もちろん夜は眠ることができず、翌朝6時の痛み止めの服用時間をまんじりともせずベッドの上で待っていました。   入院2日目の朝、N・T先生から呼び出しがかかり、正確な原因を調べる必要があるため造影剤を入れてもう一度CTを撮るというの話がありました。撮影後、すぐ説明があり私にもCT画像を見せてくれました。そしてN・T先生は病気の原因を確信したという表情で「腸腰筋膿瘍といってお腹の中の筋肉に七~九ミリ程度の膿のかたまりがあります。その菌が全身に回っていて関節に炎症を起こし高熱が出ています。治療法は抗生剤を約1~2ヶ月点滴投与するということになります。抗生剤の届きにくいところなので、じっくり治しましょう。」と話してくれました。 N・T先生は初診時、真剣な目元だけがみえるマスク姿だったのですが、CT画像の説明時にはマスクもなく、時折見せる笑顔は優しく、患者をこれほど安心させてくれる笑顔に、心から「治してもらえる、ありがたい」と思うことができた初めての経験でした。さらに若い女性の看護師さんから「絶対よくなるからね!」と力強く励ましてくれたことが、痛みを乗り越える大きな希望につながりました。 あとで調べてわかったことですが、「腸腰筋膿瘍」という病気はかなりの高齢者で免疫力が著しく低下した状態で発症することが多いそうですが、しかもその膿瘍ー膿のかたまりーは、手の拳一握りぐらいの大きさになって初めて発見されることが...
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    17 分
  • 田舎坊主の七転八倒<供養は食うよう>
    2024/09/26
    新彊ウイグル自治区が外国人に開放されてまもなく、中国西域シルクロードを旅行したときのことです。 タクラマカン砂漠のもっとも西方のカシュガルという町のはずれにあるイスラムのお墓に案内してもらいました。そこでまず目に入ってきたのは、背の高い木の棒の先に干からびた毛皮のような物が突き刺さっている、よくわからないものです。 私は通訳を通して、「これは何ですか?」と聞くと、「ここの墓に埋葬された人が、羊のおかげで今まで生きてこられてたので、これはその供養のために立ててあるのです」と教えてくれました。 そういえば、シルクロードに入ってから、いたるところで羊の群れに出会いました。オアシス以外、緑は決して豊かではないのに、羊が多いということは、羊が如何にたくましく人間と共存しているかがわかります。 羊は「歩く食料」であることはいうまでもなく、しかも年間雨量60ミリ、年間蒸発量3000ミリと言われる大乾燥大地のシルクロードでは、気温が下がる夜に羊の毛はなくてはならない衣料となり、昼間も人間を乾燥から守る大切な服にもなるのです。 また、羊の肉を食したあとの皮はほとんどが「ふいご」となり、カシュガルでは欠かすことのできない火起こし道具となっています。これがナイフや包丁などの鍛冶屋産業を生み支えているのです。 さらに羊の皮に空気を入れてふくらませたものは、羊皮(ヤンピー)船となって中国大黄河の橋のないところでは水上運送船として、人や物を運ぶのになくてはならない重要な役割を果たしています。 そういえば、昔は「羊」ヘンに「食」と書いていた「羊食」、今では「羊」がカンムリになった供養の「養(やしなう)」という字は、「羊を食べること」が養うことを意味していたのです。 旅行中、古老が、「羊は大地に吹き出した塩分と、わずかな草木の芽などを食べて生きられるのです。しかも多産で安産なのです。」とも教えてくれました。 胎児は羊水と羊膜に守られて、母の胎内で最高の栄養を与えられ、月満ちて出産となります。なぜ胎児の生命を育む体内臓器に「羊」の字が使われたのかはわかりませんが、シルクロードにおいては、古老のいうように羊は安産であり多産であること、そして羊の命を頂いて人間の生命は支えられてきたことが、決して無縁ではないように思うのです。 そしてシルクロードなどの羊文化圏では、人の年齢は「数え」でとらえられています。これは出産前の羊水・羊膜に守られた胎児の期間を加え、赤ちゃんが姿を現さないときから命と数えていたのでしょう。ちなみに、日本では今でも位牌に刻まれる亡くなった人の年齢や厄年の数え方に「数え」は残っていますが、つい最近まで「数え」の年齢をいう老人がいたものです。 * ウルムチのバザールでは羊の頭と腸を大きな鍋で煮込んだものがありました。この羊の煮物こそ「羊羹」だったのです。「羹」という字は「羊」を「火」で煮て、しかもその「羊」は「大」なるものという合成文字からできています。「羹」は、「あつもの」と読み、煮炊きしたもののことです。 私は七年間、高野山の宿坊で小坊主時代を過ごしましたが、その宿坊での精進料理の中に「旬羹(しゅんかん)」とよばれるものがありました。文字どおり季節の旬の食材を煮炊きした料理であります。日本の「羊羹」には動物性タンパクは全く含まれていませんが、たとえば羊の胃袋の中に乳を入れて生まれたチーズ文化が、やがて日本では豆腐などの大豆文化に変化したように、羊を煮たものが小豆を煮た、現在の羊羹に変化したのではないでしょうか。 羊文化は日本の漢字にも影響を与えており、「羊」の字がついた漢字は多くが「いい意味」を表しているのは、人間に豊かな恵みを与えた動物であったということが大きな理由と考えられます。「養」「羊羹」のほかにも「洋」「美」「鮮」「義」「善」「祥」「翔」「群」「詳」「着」などがあります。ちなみに、2015年は干支でいえば未(ひつじ)年でしたね。羊にちなみ、きっといい年になることでしょう。 * 自宅でお葬式を出していたころには、...
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    13 分
  • 田舎坊主の七転八倒<遠隔引導>
    2024/09/19

    この田舎寺もご多分に漏れず檀家さんの数は減少傾向にあります。かつては全部で600戸近い檀家さんがありましたが、飯盛鉱山という銅鉱石を産出する銅山が1970年に閉山廃鉱になると、200戸以上がこの地を去っていったため、現在では380戸ぐらいに減少しています。

    その後も多くの檀家さんが出ていかれましたが、そのうちの何軒かは今でも出檀家(でだんか)として法事やお盆のお参りなどはこの田舎寺と縁をもってつながっています。その理由は田舎から出て行っても同じ宗派のお寺が近くになかったり、やはり先祖代々お世話になったふるさとのお寺の坊さんにお参りなどはお願いしたいと思われている方も多いからでしょう。

    もう一つの理由は、お墓がふるさとにあるということです。田舎を離れて行かれた方の中にはお住まいのところでお墓を求めることが困難な方も多くいるようなのです。近頃は「墓じまい」という言葉も出ているようですが、まだまだ田舎ではお墓がなければ「はかない」と、春秋の彼岸やお盆には多くの方がお参りをしてきれいにお祀りをされている姿が見られます。

    このように縁をつないでいる出檀家さんは、橋本市から和歌山市までの紀ノ川筋や大阪府まであって、お盆には必ずお参りさせていただいています。

    出檀家さんの法事は、ほとんどが田舎寺の本堂でつとめてもらうようにしているのですが、葬式に関してはどうしても家の近くのセレモニーホールなどへ行かなければなりません。お通夜や葬式については当然予定が立てられないため、その段取りはなかなか当家の意向に沿うことが難しいのが現実でもあります。

    さてそんななか2014年2月14日、大阪の出檀家さんから葬儀の依頼が入りました。2月13日のお通夜は当家が希望している時間より一時間早めてもらいつとめることができました。しかし葬式当日は朝から思わぬ大雪となってしまったのです。

    とにかく当日導師をつとめるため、辻和道副住職が自動車で出発したのですが、国道を5キロメートルほど進んだところから大渋滞で全く動けなくなり、副住職の携帯電話から「だめです。進みません」と連絡が入ります。

    インターネットで調べてみると橋本市から大阪に抜ける紀見峠も全く動けません。すべての電車もバスも止まっているとのことなのです。葬儀場に電話を入れると、式場の前の道路も20センチ以上の積雪とのこと、参列者も多くの人が到着していないとのことでした。私は副住職に帰るように電話をし、式場関係者にある提案をしました。

    それは本堂で引導作法をするようすをこちらからインターネットで送るので、式場のスピーカーで流すかパソコン画面に映し出してほしいというものでした。いわば遠隔で引導作法を送る遠隔引導の提案でした。


    ちなみに私は年齢の割にはデジタル人間でして、パソコンがなければ仕事にならないくらいそこそこ使いこなしている方なのです。こんなときこそパソコンでネット中継だと思ったのです。しかし、式場の関係者からは、残念ながらパソコン画面はもちろんのこと、スピーカーにもつなげないとのこと、「案外不便だなあ」と感じながら、この提案は却下せざるを得ませんでした。生中継ができないとなれば、大阪の式場での予定時間に私が自坊の本堂で引導作法をし、読経や親族の焼香の時間を指定どおりにすすめるという2カ所同時進行の告別式しかないということになりました。さらに私が引導作法をしているようすを録画して、それをDVDにダビングし当家に郵送するということにしたのです。


    このようにして大雪の日の、坊主になってはじめて経験した遠隔引導は無事終了することができたのでした

    そして副住職は、午前8時に出発し、いつもなら10分ぐらいで帰ってくるところをお寺に着いたのは、お昼ごろになっていました。お疲れさまです。

    合掌

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    9 分
  • 田舎坊主の七転八倒<読経の声が合わない>
    2024/09/12
    仏教には声明(しょうみょう)というのがあります。 最近、高野山真言宗では「高野山声明の会」というのも結成されています。この会は本堂などのお堂で催される宗教行事だけではなく、さまざまな音楽ホールなどにおいてショーアップし公演されることも多くなりました。若いイケメンのお坊さんたちが法衣を着け、手にそれぞれ妙鉢(みょうはち:シンバルのような楽器)や散華(本来は花びらですが、絵柄の入った紙が多い)を入れた金色に輝くお盆などをもって、メロディーのついたお経を声を合わせてを唱えているのをご覧になった方も多いことと思います。 お坊さんのなり手が少ないなかで、このようなイベントが幅広く行われ、人材発掘の大きな契機ともなっているのです。ちなみに平成27年は弘法大師が高野山を開創して1200年になります。この大きな行事を前に全国で多彩な「お待ち受け法要」というものが開催されていますが、そのなかでもこの声明公演はひときわ人々の心を引きつけているように思います。その理由はおおぜいの僧侶のきらびやかな法衣衣装であり、厳かなたたずまいや厳粛な作法であり、ライトアップの舞台演出等々であることはいうまでもありません。 しかし最も大きな理由は、僧侶たちの声明がかもし出すハーモニーやメロディーであり、鉢や銅鑼、鐘などの音色ではないでしょうか。 私が平成63年3月、高野山密教遺跡研究会に同行させていただきシルクロードを旅行したとき、多くの石窟寺院を見ることができました。もともとシルクロードはイスラムが侵攻してくるまでは仏教の聖地でもありました。しかし現在残っている遺跡はほとんどが破壊されていて、石窟寺院のなかにはわずかに当時の壁画などを見ることができる程度です。私が最も感動したのは新疆ウイグル自治区の西端に近いクチャというオアシスの町にある「キジル千仏洞」に残された「五絃琵琶」の壁画です。この五絃琵琶がやがて日本に伝わり、現在では日本の超一級の国宝として正倉院に保存されているのはよく知られています。 この石窟にはほかにもたくさんの楽器を持った伎楽天が描かれています。仏教華やかなりしころ、仏をたたえ仏に感謝することを、人々は多くの楽器を使った音楽によって表現したことが実感されるのです。そして町やバザールに行けば、タンバリンやギター、三味線などの原型と思われるような楽器がところせましと売られています。 私の家にはそのときに買ってきたラワープという弦楽器と小さな太鼓、ホータンの河原で拾った玉石と1000年ほど前(?)の茶碗のかけらが今でも大切に部屋に飾ってあります。 現在、聞くことができる声明は日本の原音楽である浄瑠璃や謡曲、義太夫、長唄ひいては民謡などの元となったものであるといわれています。よく「ろれつ(呂律)が回らない」と言います。この呂律(りょりつ)は本来音楽の調子のことです。声明は基本的には呂・律・中の三曲と、五音とよばれる宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、つまり段々に音が高くなる、ドレミのような五音階でできています。この呂と律を取って言葉の調子がわるいことを「ろれつ(呂律)が回らない」といったのです。 さて、今から35年ほど前には、お葬式の職衆として声がかかると、ほかの職衆がだれなのか大いに気になったものです。3人葬式の場合、導師がいて脇に職衆が2人座ることになります。式中、導師は小さな声で引導作法をするため職衆2人が声を合わせて唱えなければなりません。この声が不揃いになると、ありがたみというか厳かさというものがなくなってしまいます。そのためお唱えする調子の高さやリズムなどをきれいに合わせることが必要となり、最も神経を使うところでもあります。 ところがなかには呂律のまわりがわるい高齢のお坊さんもいて、その方と職衆が一緒になると合わせるのに大変苦労するのです。お経の息を継ぐところもお互いに違うところですれば、途切れることもなく聞こえるのですが、こちらが止まればあちらも止まるということがあるのです。そうなると次の出...
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    11 分